2016年4月6日水曜日

受け入れられる

今日はベビママクラスに参加するため、我が子の生まれた病院に久々に訪問。
12月に生まれて一ヶ月検診(1月)ぶりだった。
3ヶ月半の赤子を連れての一人行動は考えてみれば初めてで、病院のトイレに入っても、設置されているベビーチェアが5ヶ月〜と記載されていて、あれ、赤子座らせられないのか?いや、首すわってるしもう大丈夫か?とかよく分からないまま結局、赤子を抱きながらなんとか用を足すという。これは綱渡り状態か?今月末には二人で飛行機に乗らなければならんのよ?と。こりゃ外出練習が必要か?と少し焦る。

だけど、赤子を抱いてあちこち動いていると、知らないおばあさんやおじさんたちに、「かわいい!!」とか、「しっかりしているな、お母さんがんばってよ」と声をかけてくれ、それに自分がとても嬉しいと感じていることに気づいた。元気をもらった、というか、社会に認められた、受け入れられたと実感した。

学生から社会人になって、ある意味弱者からお金も行動範囲も自分の思い通りになることが増えた。その反面、社会からは一人の社会人として認知されたが、ほっておいても大丈夫だろうと、むしろどう接していいか分からない。という、他人からの接触、コミニケーションが得られないことに少しさみしい気がしていたのだ。周りの人とのバリアを感じていたのだ。けど赤子を抱いているだけで、周りの人とのバリアがさっと消えた気がした。
まるで山の中で霧が晴れた感覚。こんな素敵な景色が近くにあったのか!と嬉しさとこの高揚感。

なので、この経験に味をしめた人恋しい私は、これからはもう少し赤子と外に出ようと思った。人と交流したい。知らない人に励まし、勇気、元気をもらえるかも。時には心ない人には無視や冷たい言葉を浴びせられるかもしれない。
けれどもどれもこれも経験。貴重な経験。その時どんな感情を抱くか、その時の感情、気持ちを人生の糧にできたらまた自分という人間の厚みになる。どんな経験も成長できる。無駄なことは全くない。
赤子といろんな経験を積んで一緒に成長していこう。チャレンジしていこう。

こんな経験をさせてくれた皆に感謝!!

2016年4月5日火曜日

親との距離

自分に子どもができて、親との距離が変わってきた。
社会人になるまでは親は絶対的な存在で、親のいうことは必ず正しい。
必ず従わなければならない。
という脅迫観念がとてもあった。
今思えば、両親があまりにも近すぎて、周りを見渡したり、比べたりすることができなかった。

けれども社会に出て、結婚して世界が開けた。
親の言っていることが必ずしも正しいということはない。むしろ視野が狭い。
そういうことが気になって、気になって、最後にはこんな狭い世界での意見に「いうことを聞かなければならない」「親のいうことは絶対」と自分を抑えこんできた自分に逆に腹が立って、それから両親に逆恨みのような感情を持つようになってしまった。こりゃダメだと思いつつ、その思いは増幅し、この感情は自分の手に負えないところまできていた。両親に心の距離は確実にあった。両親もこんな娘をどう扱ったらいいか途方に暮れていたところがあったのではないかと推察する。

ここで転機がやってきた。
私にも子どもができたのだ。

都合で里帰り出産をした。
子どもを介して両親と接するようになり、前よりも心の幅を持って接することができている自分に気がついた。
子どもを介して両親にも甘えられる。子どもを介して娘である私の世話を焼いてくれる、気遣ってくれる。
そんな両親に感謝する。ぎくしゃくした時よりも距離は縮まり、けれども、完全に依存していた幼きときよりも近くない。程よい距離。
こんなところにも幸せのおすそ分けをしてくれた我が子。
寝顔を見ながら、ありがとう、大好きよとつぶやいている。

2016年4月4日月曜日

経験を糧にする

数日前の朝日新聞から。
経験を言葉にすることを人は翻訳の作業になぞらえる。言葉以前の経験も言葉として整えられて初めて形をなす。経験に浸っているだけではいつまでも経験の意味は明らかにならない。

「貴重な経験をした」「面白い本だった」「有意義な時間でした」
この時点では経験に満足して浸っているだけ。重要なのはそこからどれだけ自分の糧にしていくのか。その過程において、経験の言葉への翻訳は必要不可欠ということだ。
経験したことだけにあぐらをかいていてはただの凡人。むしろ身になっていないことをひけらかすだけの程度の低い人間に成り下がってしまう。このことを肝に銘じて、日々経験を言葉におこしていく作業を怠らないようにと自分に言い聞かせている。

というもの、そういう人は自分の無知を自覚できず、さらにはプライドも高くなりがちで、人のいうことを聞かず、自分の思い込みで物事を捉えがちになる。
考えてみればそういう人は周りにもゴロゴロいる。そういう人と接していると人間としての厚み、話の重みが全くないことに気づく。

なので、私の場合、初めての人に会う時は、まずそんな人か否かを判断する。そんな人であった場合、神様が私に教えてくれるためにその人に出会わせてくれたと感謝し、襟を正して自分の行いを省みるようにしている。

20170404 112日目

赤ちゃん。
柔らかな髪の毛。気持ちが優しくなるいい匂い。おっぱいを吸う小さな小さなアヒル 唇。
愛しくて、愛しくて、ぎゅーっと抱きしめ続けたくなる。
私を見たときのぱあっと華やぐ笑顔。
体がとろけそうになる。
幸せそうな寝顔。
この寝顔を見続けているとふっと、この現実に胸がドキドキすることも。
たまらなく嬉しくなることも。
この子を抱いて歩いているとふと、
「ここに可愛い可愛い赤ちゃんがいます!みんな見てください!」
と叫びたくなることも。
この子の幸せを祈るのはもちろんのこと、どうしたら私の今の愛情をこの子に伝えることができるか、いつも考えてしまう。
だけど伝えたいって気持ちは完全に私の自分勝手な気持ちである。

私のお腹の中で静かに過ごしてきて、39週と4日でこの世に生まれてきてくれた。
生まれた途端、明るすぎる果てしない大きな空間に投げ出され、寒い、暑いがあり、その上食事(お乳)も自分の力でとらなければならない、そんな過酷な世界に適応してなくちゃならない。
そりゃ、生存本能が不安にさせるよ。
泣いちゃうときもあるよね。
私だって、病院でベビーベットの上で看護師さんたちに囲まれてワンワン泣いているこの子を見て、「もうやめてあげて!」と心の中で叫んで私まで涙が出そうになったっけ。

安心して。あなたを生んだ私が、大切に大切に育て上げるから。全幅の信頼を持ってくれていいんだよ。
あなたがこの世の中で一番安心できる場所になれるように。
子育ては親育て。まだまだ未熟な母だし、いっぱい壁にぶつかることもあるけれど、一緒に成長していこうね。